皇位争乱

第一話 神武東征
 饒速日命にぎはやひのみこと

 一方、中つ国(大和)を治める饒速日命にぎはやひのみこと素戔嗚尊すさのおのみことの子、大物主神おおものぬしのかみの八世の神裔であった。素戔嗚尊すさのおのみことの故地、出雲の意宇おうで育ち、成人した後、天神御祖あまつかみみおやから授かった十種神宝とくさのかんだから(注一)を携え息子の天香山尊あめのかぐやまのみことを筆頭に天鈿売あめのうずめ命、天太玉あまのふとだま命、天児屋あまのこやね命、天櫛玉あまのくしだま命ら三十二人の将士(注二)を率い、新天地を求めて出雲を発った。それは、神武天皇の東征より数十年前の事であった。

 饒速日命にぎはやひのみことは出雲から船団を率いて山陰の海岸線を南下し筑紫に向かった。山口県の彦島から九州に渡り洞海湾を航行して遠賀川の河口、蘆屋あしやに上陸し筑紫の拠点とした。この頃の遠賀川は洞海湾と繋がり福岡県の中間市役所の辺りまで広い川幅の湾を形成していた。

 饒速日命にぎはやひのみことはこの湾を利用して軍船を連ね沿岸の豪族を攻め、或いは調略して遠賀(芦屋町、岡垣町、遠賀町、水巻町、中間市、北九州市八幡西区、八幡東区、戸畑区若松区)鞍手くらて(鞍手町、小竹町、直方市、宮若市、北九州市八幡西区の一部)企救きく(北九州市小倉北区、小倉南区、門司区)を掌中に収め南の嘉麻かま(飯塚市、嘉麻市)も支配下に治めた。

 西の筑紫宗像の地(福岡県宗像市)天照大神あまてらすおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみことの誓約によって生まれた三女神田心姫神たごりひめ湍津姫神たぎつひめ市杵島姫神いちきしまひめを祀る吾田片隅命あたかたすみのみこと(宗像の祖)が領し、饒速日命にぎはやひのみこととは遠い親戚であった。

 筑紫に数年滞在し吾田片隅命あたかたすみのみことから東の海が尽きる地に青山に囲まれた豊穣の国、瑞穂の国が有ると聞き筑紫を吾田片隅命あたかたすみのみことに委ねて東に向かう事とした。

 饒速日命にぎはやひのみことは数十艘の船を建造し、三十二人の将士と筑紫の豪族(注三)を従えて遠賀川の河口から船出した。

 船団は早鞆の瀬戸(関門海峡)を抜け豊国(豊前、豊後に分かれる前の国名)三毛郡みけのこおり(大分県中津市)御木川みけがわ(山国川)河口に停泊していると土地の豪族、尋津ひろきつが兵を引き連れて現れ是非、東遷の軍に加わりたいと申し出た。

 尋津ひろきつの兵を加えた船団は宇佐(大分県)に寄港し水と食料を積み込み、国東半島を南下して杵築きつきの守江(大分県杵築市大字守江)から坂門津さかとのつ(大分市坂ノ市)に停泊した。

 坂門津さかとのつから佐賀関(大分県大分市大字佐賀関幸の浦)速吸之門はやすいなと(豊予海峡)の潮の流れを確かめ、四国佐多岬の北岸を航行して伊予(愛媛)熱田津にきたつ(この頃は松山市の道後温泉の近くまで海であった。)に碇を降ろし上陸して船旅の疲れを癒す事とした。

 熱田津にきたつに上陸してしばらくすると弁天山から船団を監視していたのか土地の豪族久米が兵を従えて現れ「何処から来て、何処に向うのか」と問うた。

 饒速日命にぎはやひのみことは新しい地を求めて出雲を出立し筑紫から伊予に至った経緯を語り、自身は素戔嗚尊すさのおのみことに始まり大物主神おおものぬしのかみの八世の神裔であると語った。そして、天神の御子のあかしとして天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あめのははや歩靫かちゆきを示し伊予の豪族久米に帰順する事を説いた。

 久米はただの矢と矢筒ではないかと神宝を怪しみ、霊力を示せとせまった。饒速日命にぎはやひのみこと歩靫かちゆきから天羽羽矢あめのははやを取り出し天梔弓あまのはじゆみつがえて空を飛ぶ鳥を射よと念じて天羽羽矢あめのははやを射た。

 天羽羽矢あめのははやは何処までも鳥を追い、矢は鳥を射て饒速日命にぎはやひのみことの手元に弧を描いて戻って来た。神宝の霊力をまざまざと見た久米は驚愕して疑いを解き今までの無礼な振る舞いを謝し帰順する事を誓った。そして、久米も東遷の軍にお加え下さいと申し出た。

 伊予の石湯(道後温泉)で疲れを癒した饒速日命にぎはやひのみこと熱田津にきたつを出帆し海岸線を北上して怒麻ぬま(愛媛県今治市大西町星浦)から来島海峡の潮待ちで波止浜はしはまに碇を降ろした。

 潮の流れが西から東に変わり船団は潮に乗って航行し今治、壬生川(愛媛県西条市)、大島(愛媛県新居浜市)、川之江(愛媛県四国中央市川之江町)、と停泊を重ね讃岐(香川県)の多度津(香川県仲多度郡多度津町)に碇を降ろした。この頃の多度津は瀬戸内の海が象頭山の麓まで湾入し天然の良港であった。

 大船団が湊を埋め尽くし大軍団が上陸したのを見た三野郡(三豊市、観音寺市)の豪族は恐れをなして伺候し恭順の意を示し、饒速日命にぎはやひのみことに館を提供した。

 多度津に一ヶ月近く留まり疲れを癒した饒速日命にぎはやひのみことは象頭山に登り始祖の神々に祈りを奉げ、山の中腹に社を建てて大物主神おおものぬしのかみを祀り(金刀比羅宮、香川県仲多度郡琴平町)航海の安全を祈った。

 そして、三野の豪族も東遷の部隊に加わり、多度津を出航した船団は五色台の先端、小槌の瀬戸を抜け屋島に停泊した。

 この頃の屋島は狭い海峡を挟んだ島であったが新田開発により埋め立てられ陸続きとなった。その後、水路が掘られその水路が海峡の名残を留める相引川である。

 屋島にしばらく滞在していると遠く讃岐大内郡(香川県東かがわ市)の豪族、疋田ひきたが大船団の噂を聞きつけて駆け付け是非、東遷の軍に加わりたいと申し出た。

 饒速日命にぎはやひのみことは讃岐の兵を加え、屋島を出帆して小豆島、家島に寄港し播磨灘に面した室津(兵庫県たつの市御津町室津)に停泊した。

 室津を出帆した船団は順風満帆、快適に播磨灘を航行して氷川の津(兵庫県加古川河口 高砂市)に寄航し翌日は速吸瀬戸はやすいのせと(明石海峡)の潮待ちで明石川の河口、藤江の浦に停泊した。藤江の浦に投錨すると大船団を監視していたのか土地の豪族、播麻が現れ東遷の軍に加わった。

 数日、藤江の浦に滞在し、出帆の準備に取り掛かっていると潮見の兵から潮の流れが変わり風向きも良いとの報せを受け急いで法螺貝を吹き鳴らし、出帆の合図を出した。

 大船団は速吸瀬戸はやすいのせとの早瀬に翻弄されながら海峡を乗り切り和田の岬に抱かれた天然の良港、務古水門むこのみなと(神戸市兵庫区)に碇を降ろした。

 大船団を目撃した八部やたべ(神戸市旧生田区、兵庫区、長田区)の豪族は兵を引き連れて続々と現れ、東遷の軍と知ると次々に恭順の意を示した。

 数日滞在した饒速日命にぎはやひのみことの船団は務古水門むこのみなとを出帆し武庫の津(武庫川河口 西宮市津門の辺り)から海岸線に沿って航行し、東に向かう海が尽きたので鵜河うがわ(淀川)を遡って河内国河上の哮ヶ峯たけるがみね(磐船神社 大阪府交野かたの私市きさいちの麓に碇を降ろした。

 上陸を開始すると武装した数百の兵を従えた河内の豪族が現れ饒速日命にぎはやひのみことの一団を囲んだ。饒速日命にぎはやひのみことは戦を避け伊予の豪族久米に示した如く、素戔嗚尊すさのおのみことに始まり大物主神おおものぬしのかみの八世の神裔であると説き天神の御子の証として天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あめのははや歩靫かちゆきを示し帰順する事を説いた。

 河内の豪族も伊予の久米と同じく神宝を怪しみ、霊力を示せとせまった。饒速日命にぎはやひのみこと天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あめのははやつがえ、鳥を射よと念じて天に向かって射た。矢は視界から消えたが暫くすると鳥を射て饒速日命にぎはやひのみことの手元に弧を描いて戻って来た。璽符みしるしの霊力を目の当たりにした河内の豪族は恭順の意を示し、館を提供して迎え入れた。

 饒速日命にぎはやひのみことはしばし河内に滞在し生駒の山の向こうに肥沃な地が有ると聞き知り、河内の豪族に尋ねるとその地は青山が回りを取り囲む豊穣の国で大和と呼び習わしていると饒速日命にぎはやひのみことに告げた。

 饒速日命にぎはやひのみこと吾田片隅命あたかたすみのみことが申していた瑞穂国みずほのくにとは生駒連山の向こうに有る大和ではないかと思った。是非、訪ねて見たいと思い河内の豪族に大和に至る道を尋ねた。

 河内の豪族は天野川を遡る磐船越え(国道一六八号線)の道を示し、大和は長髓彦ながすねひこが支配する地であると告げた。河内と大和は生駒の山に阻まれ地境を争う事も無く平穏な交流が続いていた。

 長髓彦ながすねひこは大和の鳥見とみ白庭山しらにわやまの地(奈良県生駒市白庭台)に居を構え、武勇は近隣に聞こえ宇陀、吉野とも親交を持ち近隣の豪族から盟主と仰がれていた。

 饒速日命にぎはやひのみことは是非会って見たいと思い長髓彦ながすねひこの元に使者を立て会見を申し入れた。長髓彦ながすねひこは使者の口上を聞き会う事を承知した。

 饒速日命にぎはやひのみことは吉日を選び大和の鳥見とみに赴き長髓彦ながすねひこの館を訪ねた。暫し待つ内に武人として並外れた体躯を持った長髓彦ながすねひこが悠然と饒速日命にぎはやひのみことの前に姿を現した。

 饒速日命にぎはやひのみことは自ら天神の御子と称して始祖を語り、中つ国を探し求めて大和に入った経緯を語った。「新天地を求めて三十二人の将士と共に出雲を発ち筑紫に至った。そして、筑紫を制して治めていたが東の地に瑞穂国みずほのくにが有ると聞き及び船出して伊予に渡りしばし留まって、讃岐の屋島から播磨、摂津と航行し河内の国に入った。河内の豪族とも親交を結び生駒連山の向こうに青山が回りを取り囲む豊穣の国、大和が有ると聞き及び大和がすなわち中つ国であろうと思い使者を立てた。今、大和を訪れ、吾田片隅命あたかたすみのみことが申していた通り青山に囲まれ争いも無く、五穀は実り、平穏に暮らす民を見て、大和こそ探し求めた瑞穂国であると確信した。」

 長髓彦ながすねひこは話を聞き終わり、自ら天神の御子と名乗る饒速日命にぎはやひのみことに疑いを抱き、「天神の御子なら璽符みしるしを示せ」と迫った。

 饒速日命にぎはやひのみことおもむろに天孫の証である天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あめのははや歩靫かちゆきを示したが長髓彦ながすねひこも河内の豪族と同じようにただの弓矢と矢筒ではないかと神宝を怪しみ、霊力を示せとせまった。

 饒速日命にぎはやひのみことは河内の豪族に示した如く天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あめのははやつがえ天空に射た。暫くすると矢は鳥を射抜き弧を描いて饒速日命にぎはやひのみことの手元に戻ってきた。

 長髓彦ながすねひこ璽符みしるしの霊力を目の当たりにして驚いた。河内に天神の御子と称する貴人が伊予から来て、河内の盟主と仰がれている事は聞き知っていたが人が治める人の世になって天神の御子など居るはずがないと思っていた。まさか、眼前に現れた主が天神の御子とは想い及ばなかった。

 長髓彦ながすねひこは疑念を抱き、非礼な行いを深く詫び、神がこの大和に盟主を御遣わしに為られたと感じ入り河内に倣い大和の盟主と仰ぐ事を誓った。

 そして、館に大和の豪族を集め、神は大和に天神の御子を遣わされた。今後は大和の盟主として饒速日命にぎはやひのみことを仰ぎ奉ると告げ、鳥見とみ白庭山しらにわやまの地(奈良県生駒市白庭台)に館を建て饒速日命にぎはやひのみことを河内から大和に御遷しした。

 饒速日命にぎはやひのみこと長髓彦ながすねひこに伴われて大和の神を祀る石上神宮いそのかみじんぐうに詣で大和の盟主となる許しを乞うた。祀る神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみと称し鉄剣に姿を変えていた。

 鉄剣を見た饒速日命にぎはやひのみことは驚きを隠せなかった。この剣は天照大神あまてらすおおみかみの命を受け建御雷神たけみかずきのかみが出雲の伊那佐の小濱に天降あまくだ十握剣とつかのつるぎ(注四)を突き立てて大物主神おおものぬしのかみに国譲りを迫った布都御魂剣ふつのみたまのつるぎで有った。この剣を見た饒速日命にぎはやひのみことはこの地こそ探し求めた豊穣の国、瑞穂の国であったと確信した。

 長髓彦ながすねひこに神の出自を問うたが長髓彦ながすねひこは我らがこの地に来る前からこの地に鎮座する産土神うぶすなかみ(その土地の神)で有ると答えた。饒速日命にぎはやひのみことは出雲を出立して父祖が国譲りした瑞穂国みずほのくにが大和で有った事に驚き、父祖の導きで有ろうと思った。

 大和の盟主となった饒速日命にぎはやひのみこと長髓彦ながすねひこの妹、三炊屋媛みかしきやひめを妃に迎え、宇摩志麻治尊うましまじのみことを授かり、平穏に暮らしていた。

 そして、数十年の時が過ぎ饒速日命にぎはやひのみことの東遷に随行した針間(播磨)の豪族、播麻から使いがもたらされた。使者の口上によると「聞くところによると、天神の御子と称する狭野命さののみことが中つ国を求めて東征の軍を興して日向ひむかを発ち、筑紫、阿岐を平定して吉備に攻め入り岐備津彦きびつひこを帰順させて吉備に留まり、多数の軍船を建造して東の中つ国に向かうとの事。中つ国とは大和の事であろう。」と報せて来た。

 報せを受けた饒速日命にぎはやひのみことは語り継がれて来た国譲りの故事が現実になろうとしている事に驚愕した。これは神のご意志なのか、それとも単なる侵略の軍なのか。いずれにしても対策を講じねばならない。

 饒速日命にぎはやひのみことは直ちに長髓彦ながすねひこと主だった大和の豪族を集め播麻はりまからもたらされた報せを伝え、大和が危急存亡の時を迎えた事を告げた。そして、語り継がれてきた神代の頃の国譲りの故事を語り、父祖の神に倣い、天神の御子と称する日向ひむか狭野命さののみことに国譲りするか、建御雷神たけみかずきのかみと争った建御名方神たけみなかたのかみに倣って戦うか大和の総意に従うと告げた。

 聞き終えた長髓彦ながすねひこは豪族を前に語った。「神代の頃は知らず、人が治める人の世となって以来、我が地は我が手で守らねばならぬ。狭野命さののみことは既に阿岐、吉備を降した。船の建造を終えれば針間(播磨)を攻め、海を渡って住吉の津から草香くさか白肩津しらかたつに船を留めて大和に攻め上るであろう。孔舎衛坂くさえのさか(日下越え)から生駒を越えて攻めて来るか、大和川を溯る竜田道のいずれかであろう。あるいは鵜河うがわ(淀川)を遡って平潟ひらかた(枚方)で船を留め磐船越えの道も有るが、この道は狭隘な地にそそり立つ天の磐船の巨岩(磐船神社 舟形巨岩を御神体としている 大阪府交野市私市)を盾としてこの地の豪族肩野饒速日命にぎはやひのみことに随行した肥後の豪族)が守れば進軍を阻むであろう。或いは紀の川を溯り吉野に向かうかも知れぬ。」と語り、豪族と防戦の備えを語りあった。

 長髓彦ながすねひこ狭野命さののみことを何としても孔舎衛坂くさえのさかに向かわせる策を取った。竜田道には柵を設け二重、三重の環壕を掘り砦の中に櫓を築いて備え、東征軍が竜田道を目指せば外山とび(奈良県桜井市外山)の豪族、兄師木えしき弟師木おとしきの兄弟が地の利を生かして撃退し孔舎衛坂くさえのさかに向わせる。

 孔舎衛坂くさえのさかに布陣すれば、たとえ狭野命さののみことが数千の兵で攻め寄せようとも地形を利して迎え撃てば数百の兵で撃退出来る。万が一孔舎衛坂くさえのさかを突破されて大和に入っても東征軍の兵站へいたんは延び切り糧食と弓矢の補給が続かないであろう。孔舎衛坂くさえのさかには長髓彦ながすねひこが陣を敷く。忍坂おいさか(奈良県桜井市忍坂)八十梟帥やそたけるは大和の守りに就き孔舎衛坂くさえのさかを突破した東征軍を迎え撃て。万が一、紀の川を溯り吉野に向かえば宇陀の兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしの兄弟で撃退する。孔舎衛坂くさえのさかの戦を長引かせ戦局を見て河内の兵が背後を襲えば袋の鼠となって壊滅出来ると考えた。

 その為には河内の兵は弱兵と思わせ東征軍のおごりを誘う必要が有る。河内の兵は草香に上陸した東征軍を攻め早々に敗退して東征軍を遣り過ごす。この戦で東征軍は大和の兵は取るに足りぬと思い傲慢になり一気呵成に孔舎衛坂くさえのさかに向かうであろう。そうなれば戦は半ば勝利したも同然であると告げた。

 長髓彦ながすねひこ狭野命さののみことの進攻に備え着々と戦の準備を整えた。饒速日命にぎはやひのみことの元に播麻はりまから再び報せの使者が来た。「狭野命さののみことは吉備の兵を合わせ、数多あまたの軍船を建造して軍備を整え、勇躍、大和に向かって船出した。」との報せであった。

 長髓彦ながすねひこはいよいよ大和に侵略の軍が迫った事を知り、「狭野命さののみことが大軍を擁し船団を組んで吉備を発った。いよいよ戦の時は迫った。」と大和の豪族に報せ、生駒山に物見の兵を遣わし「昼夜を分かたず見張れ、そして船団を見とめたら直ちに狼煙を上げよ。」と命じた。


注一 十種神宝とくさのかんだから 

羸都鏡おきつかがみ邊都鏡へつかがみ八握劔やつかのつるぎ生玉いくたま死反玉まるがえしのたま足玉たるたま蛇比禮おろちのひれ蜂比禮はちのひれ品物比禮くさぐさのもののひれ道反玉みちがえしのたまの十種


注二 三十二人の将士

天香語山命あまのかごやま 尾張連等祖おわりのむらじ 天鈿売命あまのうずめ 猿女君等祖さるめのきみ
天太玉命あまのふとだま 忌部首等祖いむべのおびと 天児屋命あまのこやね 中臣連等祖なかとみむらじ
天櫛玉命あまのくしだま 鴨県主等祖かものあがたぬし 天道根命あまのみちね 川瀬造等祖かわせのみやつこ
天神玉命あまのかむたま 三嶋県主等祖みしまのあがたぬし 天椹野命あまのむくの 中跡直等祖なかとのあたい
天糠戸命あまのぬかと 鏡作連等祖かがみつくりのむらじ 天明玉命あまのあかるたま 玉作連等祖たまつくりのむらじ
天牟良雲命あまのむらくも 度会神主等祖わたらいのかんぬし 天背男命あまのせお 山背久我直等祖やましろのくがのあたい
天御陰命あまのみかげ 凡河内直等祖おおしこうちのあたい 天造日女命あまのつくりひめ 阿曇連等祖あずみのむらじ
天世平命あまのよむけ 久我直等祖くがのあたい 天斗麻弥命あまのとまね 額田部湯坐連等祖ぬかたべのゆえのむらじ
天背斗女命あまのせとめのみこと 尾張中島海部直等祖おわりのなかじまのあまべのあたい 天玉櫛彦命あまのたまくしひこ 間人連等祖はしひとのむらじ
天湯津彦命あまのゆつひこ 安芸国造等祖あきのくにのみやつこ 天三降命あまのみくだり 豊田宇佐国造等祖とよたのうさのくにのみやつこ
天日神命あまのひのかみ 対馬県主等祖つしまのあがたぬし 乳速日命ちはやひ 広湍神麻続連等祖ひろせのかむおみのむらじ
八坂彦命やさかひこ 伊勢神麻続連等祖いせのかむおみのむらじ 伊岐志迩保命いきしにほ 山代国造等祖やましろのくにのみやつこ
活玉命いくたま 新田部直等祖にいたべのあたい 少彦根命すくなひこね 鳥取連等祖ととりのむらじ
事湯彦命ことゆつひこ 畝尾連等祖とりおのむらじ 天下春命あまのしたはる 武蔵秩父国造等むさしのちちぶのくにのみやつこ
月神命つきのみたま 壱岐県主等祖いきのあがたぬし 天神魂命あまのかむたま(三統彦命みむねひこ) 葛野鴨県主等祖かどののかものあがたぬし
天活玉命あまのいくたま 倭久連等祖わくのむらじ 表春命うははる 信乃阿智祝部等祖しなののあちのいわいべ

注三 随行した主な豪族 (物部とは軍団の事)

五部人いつとものひと

天津麻良あまつまら・・物部造等祖

天勇蘇あまのゆそ・・・笠縫部かさぬいべ等祖

天津赤占あまつあかうら・・為奈部いなべ等祖

富々侶ほほろ・・・十市部首とおちべのおびと等祖

天津赤星あまつあかほし・・筑紫弦田物部つくしのつるたもののべ等祖

伴領とものみやつこ

二田造ふただのみやつこ大庭造おおばのみやつこ舎人造とねりのみやつこ勇蘇造ゆそのみやつこ坂戸造さかとのみやつこ

天物部あまのもののべ二十五部

筑紫 

二田ふただ物部、贄田にえた物部、狭竹さたけ物部、芹田せりた物部、浮田うきた物部、嶋戸しまと物部、赤間あかま物部、横田よこた物部、大豆おおまめ物部、馬見うまみ物部、田尻たじり物部、きく物部、鳥見とみ物部

豊国 

尋津ひろきつ物部

肥後 

当麻たぎま物部、肩野かたの物部

伊予 

久米くめ物部

讃岐 

三野みの物部、疋田ひきた物部

播磨 

播麻はりま物部

摂津 

住跡すみと物部

旧国名不詳 

羽束はつか物部、巷宜そがの物部、須尺すじゃく物部、相槻あいつき物部

船長

天津羽原あまつはばら・・・跡部首あとべのおびと等祖

梶取  

天津麻良あまつまら・・・阿刀造あとのみやつこ等祖

舟子

天津真浦あまつまうら・・・倭鍛師やまとのかぬち等祖

天津麻占あまつまうら・・・笠縫かさぬい等祖

天都赤麻良あまつあかまら・・曽曽笠縫そそかさぬい等祖

天津赤星あまつあかほし・・・為奈部いなべ等祖

注四 十握とつかの剣 

天羽々斬剣あめのはばきりのつるぎ布都斯魂剣ふつのみたまのつるぎ 等々、刃渡りが拳の長さ十握りある長剣で刃渡りおよそ八〇センチ~一メートル 平均的な銅剣の長さはおよそ五〇センチ程度


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